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「源氏物語」という作品そのものに作者名は記されていませんが、作者は紫式部である、というのが現在の通説です。
「紫式部」という名は通称で、実名は明らかではありません。当時は、実名を明確にしないという慣習があったのです。「籐式部」とも言われていたようです。

世界にその名を知られた人でありながら、その生涯については、同時代の他の著名な女性作家と同様に不明な点が多く、確かな生没年さえ不明です。
970年から978年の間に生まれ、生存の確認ができるのは1019年まで、この年から1026年までのいずれかの年に死亡したものと推定されています。
 ただ、藤原氏北家の流れの藤原為時の娘であることははっきりしているので、紫式部の生涯を推し量るためには、周囲の男性たちの記録を紐解くことも1つの手段です。また、「紫式部日記」「紫式部集」など、本人の著作も、重要な手がかりとなっています。

曽祖父の兼輔は、中納言の公卿で、上流貴族でした。堤中納言と呼ばれ、広い屋敷(現在の京都市左京区・蘆山寺辺り)に住んでいました。
ですが、祖父の雅正、父の為時は中流貴族に零落し、中央政界からは外れ、曽祖父が遺した古い屋敷に兄弟一族で住んでいたようです。
曽祖父、祖父、伯父、父、弟、母方の祖父など、一族は皆優れた歌人であり、文化人でした。紫式部の文学的才能も、そうした一族の影響を強く受けて、花開いたのでしょう。

特に父の為時は、大学寮の文章生で、優れた漢学者でもありました。花山天皇の時代、為時は式部丞蔵人から式部大丞まで昇進しました。しかし、花山天皇が2年余りで退位したことで、越前守になるまでの約10年間は、閑職の恵まれない暮らしを余儀なくされました。花山天皇の退位後は一条天皇が即位し、1011年まで長期政権が続きます。
母親は、紫式部の同母弟(あるいは同母兄)である(974年生)を産んでほどなくして亡くなっています。
紫式部は、不遇な中流貴族の娘として、多感な娘時代を過ごしたのではと考えられています。

996年、父・為時が越前守に任命され、紫式部は父に同行して越前に下っています。越前での滞在は2年足らずで、998年にはふたたび京に戻りました。
999年、20歳代だった紫式部は、47歳の従兄、山城守・藤原と結婚しました。当時の女性の結婚としてはずいぶん晩婚です。宣孝には紫式部とほぼ同年齢の息子もいました。

翌年、長女・賢子(後の大弐三位)が生まれましたが、その翌年(1001年)、夫・宣孝は病で亡くなり、紫式部は1年の喪に服しています。1001年は春から夏にかけて疫病が大流行し、暮れには、史上初の女院でもある詮子が40歳で崩御するなど、歴史的にも大きな変化のある年でした。

その後、時の為政者・藤原道長の要請で、中宮・藤原彰子(道長の長女)のもとに出仕しました。「紫式部日記」によれば、これは1006年の大晦日のことだったと考えられています。その後、約10年間の宮仕えをしたようですが、確かなことはわかっていません。

こうして見ると、紫式部の人生は決して恵まれていたとは言えず、「源氏物語」「紫式部日記」「紫式部集」、どの著作にも、悲哀と憂い、人生の無常観が漂うのは当然のことと言えましょう。

ところで、紫式部は、「源氏物語」をいつ書き始めて、いつ書き終えたのでしょうか。
 この問いに答えるのは、なかなか難しいのですが、おそらく、中宮・彰子のもとに出仕する頃までには、40帖までの物語の大半が出来上がっていたと考えられています。出仕後に宇治の物語が加筆され、さらに40帖までの物語にも手が加えられて、現在、私たちが読んでいるような物語の形になったと言われています。


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